東京都八王子市にある一際大きなコニカの工場には東京国際マラソン優勝を讃える大段幕。胸にネームプレートをつけた仕事着でワイナイナ選手は現れた。過密スケジュールの中、広報の方の計らいもあり、取材を許可して戴いた。優勝のお祝を伝えるとともに、競技から日常生活まで様々な角度からお尋ねした。流暢な日本語で終始笑顔で応えて下さった。
*来日以来、セリアを使用して戴いていますが、なぜ、サプリメントの必要性を感じているのでしょうか。
「ケニアとは気候も食べ物も違います。あまり沢山食べる方ではないので、補助しないといけないと思いました。ケニアにいる時は特に気にしませんでしたが、日本に来てマラソン練習をやるようになり、本を読んだりして、栄養の必要性を感じました」メダリストもサプリメントに関しては個人で購入し、継続している。
*試合で結果を出せるのは何故でしょうか。
「特に他の選手と違うところはありません。ケニアの選手は四〇キロ走を週に三回もやらないと思います。マラソン練習を日本で真面目にやるようになりました。ただ、軽い痛みでも我慢できない選手が多いです。私は我慢して練習するので、時にはひどくなることもあります。でも我慢しないと強くなれません。コンディションが良ければ、自信を持って走れます。心も体も信じれば出来ると思っています」痛みを我慢することは必ずしも良いことではないが、彼の場合、痛みをを克服し、頑張り続けることが、自信を持ってレースに臨める図式となっているようだ。
*日本人選手で水晶のネックレスとか、各種のテープなどを使っている人がいますが、どう思いますか。
「それは信じていません。一生懸命練習をやって、栄養のことも考えて、自分を信じて力を出すのが一番良いと思います」最も信じるべきは自分自身。日々の真面目な努力が彼の考え方を作っている。
*陸上選手に一番必要な物は何だと思いますか。
「毎日、走りたいという気持ちに集中することです。そしてやりたいと思い続けることが大切です」日々モチベーションを高めて練習に臨むこと。当たり前のようだが、出来ている選手は少ない。真面目な日常の積み重ねが自信の裏付けになる。
*子どもの頃は・・・
「医者になるのが夢で、学校で勉強だけしていました。科学が好きで成績は良かったです。通学では片道一〇キロ走っていました。他のスポーツも好きです。サッカーが得意でした。両親は全然スポーツをしません。弟は私の影響で走っています。父も時々ジョギングを楽しんでいるようです」アトランタ五輪の後に御家族が来日した時、お父さんを紹介して戴いた。是非ケニアに遊びに来て下さい、と笑顔で話されたのが印象に残っている。優しさに満ちあふれた家族のようだ。
*陸上をやろうと思ったのはいつ頃ですか。
「高校に入ってからです。寮生活だったので、一年に三回家に帰るだけで、外には出かけられませんでした。陸上部で練習する時だけは、クロスカントリーで山道を走ったり、色んなところに行けるから楽しかったんです。大会でも何度か優勝をするようになって、ケニアのジュニアチームに入りました。新聞に載って、皆が喜んでくれたり、応援してくれるようになり、それが嬉しくて陸上が好きになりました」周囲の喜びが自分の喜びでもあるという感覚は今でも変わらない。それが一番のモチベーションになっているようだ。
*いつから世界を・・・
「最初はオリンピックのようなレベルの高い大会に出場できるとは思っていませんでした。ケニアチームとして初めて海外のジュニアのクロスカントリー大会に出ました。それから海外に憧れ、陸上競技で世界に出たいなという気持ちが強まりました。また、近所に優秀なランナーが住んでいて、世界大会で優勝して帰ってくると、皆が拍手で出迎えるんです。自分もそうなりたい、と憧れました」
海外に行きたい。あのランナーの様になりたい。純粋に憧れを抱いていた青年が、今では憧れられる存在となった。
*休日には何をしていますか。
「買い物に行ったり、スイミングに行ったり、サイクリングも好きです。トレーニングではなく、お弁当を持って多摩川を下って羽田の近くまで行ったりします」合宿中、他の選手が休んでいる時に、散歩をしている彼の姿をよく見かける。自然に触れることが一番の気分転換なのかもしれない。
*辛いときは・・・
「日本に来たばかりの時は言葉が難しかったです。何を見ても分からなくて、ホームシックになったこともありました。でも、やりたいことの為には我慢しなきゃいけないと思いました。それをクリアしていかないと強くなれないんです」
今では流暢に日本語を話すが、言葉の壁は大きかったに違い無い。走るという目的をしっかり見据えていたからこそ、困難を乗り越えられたのだろう。
*将来の夢は・・・
「まずはマラソンを出来るところまでやることです。その後のことは、今は考えていません。でも、ずっと走り続けたいですね。引退しても色々なマラソンを走りたい。将来のことは、選手として頑張ってから考えます」競技者としての目標を達成することが先決。遠い眼差しの先には、アテネの金メダルがあるのだろう。
*ワイナイナ選手に憧れている子供達や若い選手の皆さんへのメッセージをお願いします。
「自分のやっていることを信じれば必ず出来ます。簡単ではないし、時間も掛かります。色々な痛みが出てきたり、大変なことも多いですが、すぐにダメだと思わず、ゆっくり考えれば何でも出来ます。諦めないことです」・・・
来日して一〇年近い。努力していれば自分を信じられる、という信念を築いてきた。時間は掛かります、と何度も言っていたのが印象的だった。夢があるなら、どんなことがあっても諦めてはいけない、と教えられた気がした。
エリック・ワイナイナ
二八歳 コニカ
一九九四年 北海道マラソン 優勝
一九九五年 東京国際マラソン 優勝
一九九六年 アトランタオリンピック 銅メダル
二〇〇〇年 シドニーオリンピック 銀メダル
二〇〇二年 東京国際マラソン 優勝
取材を終えて
・以前にも、どうして強いのか、と聞いた事があった。「人よりファイティングスピリットが強い」と答えてくれた事が心に残っている。喜びや苦しみを素直に受け止め、それをエネルギーにする、それが彼の言うスピリットなのだ。酒井監督、佐藤コーチ、大島コーチ、選手の皆さんはもとより、コニカという企業のスポーツに対する理解とサポートが、陸上部を支えていると思った。過密スケジュールを調整して下さった広報室の武田氏に深く感謝致します。(伊)
出会い
・千葉国際クロスカントリー大会の会場になっている昭和の森公園で合宿中だったコニカ陸上競技部、チームの皆と離れて一人で体操をしていたのが最初の出会いでした。監督に聞くと、来日したばかり、余りにも寂しそうだったので声を掛けました。その時があるから、今もお互いに友達というスタンスは変わりません。(伊)
ワイさんは優しいのだ
・「ケニアのトウモロコシの粉が欲しいんだけど」とワイさんに尋ねてみた。「どうしたの」と心配そうな顔になった。千葉の高校に留学しているケニアの選手達がホームシックになり、トウモロコシの粉で作ったケニア料理を食べたがっている事を伝えると「送ってあげるよ、住所教えて」・・・その言葉は優しさに溢れていた。今や時の人となったワイさんのスケジュールは分刻み。足早に次へと向かう背中にありがとうと言った。(山)