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No.17


特別企画インタビュー
安田享平さん 感動のあまり泣いているのはいつも自分でした

1996年、アトランタ大会目前の5月に、突然順天堂大学の沢木監督から視覚障害者マラソンの伴走者の依頼があった。降って湧いたような話に戸惑うが、障害者について何の知識もないままコンビを組む事になった。それが安田さんの陸上競技観を大きく変えることになる。

出会い
「とりあえず六月に群馬で行なわれる記録会で一回走りましょう、という事になりました。当然付き添いの方と来るものだと思っていましたが、一人で佐賀から来られると聞き、どうしたら良いものか本当に困りました。そんな心配をよそに、柳川さんは明るく積極的で、こちらが助けられました」お会いするまでは不安だったが、会ってみると健常者と何も変わらない。障害者に対するそれまでのイメージが変わったという。

初めての伴走
「お互いに綱を持って走るのですが、初めは全く出来なかったので、ルール違反ですが、手を繋いで走りました。その時、柳川さんは5000メートル17分24秒で自己新でした。走り方は馬車馬みたいですが、前に前に行こうとする意志、絶対に試合を捨てない、とにかく諦めない、という姿勢には驚かせられました」。

自己ベストで優勝
「アトランタは自分にとっても勝負だったのですが、一体どこまで本気になっていいのかという迷いがありました。当日、選手村から競技場に向かう車中で彼が私にこんな事を言いました。『2人までは前に行かせていい。でも3人以上は前に行かせないでくれ、どんなに苦しくてもいいから』その言葉で私も吹っ切れました。30キロ以降は、意識のないような状態でしたが、参加選手の中で唯一、自己ベストで走って優勝しました。感無量でしたね」出会ってから3ヶ月間という短い期間で味わった伴走者としての複雑な思い、それを吹き飛ばしてくれたのが柳川さんの言葉だった。最強コンビの誕生である。

喜びよりも安堵感 -金メダルのアトランタ-
「酒を断って試合に臨んだことはないのですが、柳川さんが酒を止めるというので、約一ヶ月禁酒しました。結果は金メダル。ゴール後は、閉会式も出ないで、二人で街に繰り出しました。その日だけは、夜中まで帰りませんでした。日の丸を背負うということは、多くの人の想いがあり、結果が出せなかったら何を言われるか分かりません。競技も続けられなかったかもしれません。喜びよりも安堵感の方が大きかったです」飲む程に、二人の話は尽きる事が無かったらしい。
「アトランタの後、座骨神経痛に苦しみました。真夏のレースはただでさえ過酷なのに、伴走というのは片側を縛られて走っているようなものですから、疲労が溜り、その結果、目指していた青東駅伝や福岡国際マラソンを見送る事になり、競技生活にとってはプラスが無かったようにさえ感じました。ところが金メダリストの柳川さんは、市民大会に出場したり、また、苦しんでいる私に、タイミング良く電話を下さり、もっと楽しくやろうと励ましてくれました。競技に対して決して肩肘を張らない日本人離れした考え方に、大きく影響を受けました」

やれる事のすべてやって挑んだパラリンピックシドニー大会
「伴走は、その時に走力があって理解もある適任者がやればいい。情に流される必要は無いし、どんどん鞍替えをして前向きにやって欲しいと常々言ってきましたが、不調の時に励まされたように、私がうまく伴走されてきた感じでした。99年の福知山マラソンでシドニーの代表に選ばれましたが、翌年4月の霞ヶ浦マラソンでポルトガルの選手が2時間36分の驚異的な記録を出し、出鼻を挫かれました。柳川さんは51分ですから擦りもしないタイム差です。周りもレベルが上がり、4年前とは全く状況が変わっていました。
とにかく柳川さんの思う通りに練習すればいい、全部合わせようと予定を空けました。直前二ヶ月で、合宿も前回の二倍やりました。走行距離も、6、7、8、9月と月間700キロ以上走りました。お陰で体調を崩し、故障、取材、プレッシャー、おまけに相手は強い、最悪の状態でした。そんな中でも、持ち味を発揮して精一杯やってくれました」
高橋尚子選手の優勝も周囲の期待に拍車を掛けた。周囲の注目、圧倒的なタイム差を感じながら練習に打ち込んだ。やれるだけの事をすべてやって挑んだシドニーだった。

心の金メダル
「結果は六位で、メダルはありませんでしたが、心の金メダルを得る事が出来ました。人は負ける確率が高くても、支えてくれる人や理解してくれる人、応援してくれる人が一人でもいれば、可能性のある限り諦めてはいけないという事を学んだ気がします。この4年間、ゴールして感動のあまり泣いているのはいつも自分でした。でも初めて柳川さんが涙しているのを見ました。自分の中でも良くやったんだろうな、納得できたんだろうなと感じました」・・・




パラリンピックに向けて

「競技者として専門的なアドバイスをすると、スポンジが水を吸うように全部受け入れようとします。人の話を本当によく聞く。毎日電話してきて、同じ事を何度も聞いてくるんです。昨日も一昨日も言ったのに、と最後には腹が立つくらい、納得するまで聞いてきます。そのひたむきさには驚かされました。私からも電話したので、電話代が月2、3万に跳ね上がりました。
それまで柳川さんの月間走行距離は400キロでしたが、6、7月で1300キロ、今までにないほど練習をしました。走る意志があっても、全盲の方は伴走者がいないと走れないんです。1日20キロ走るには、伴走者にもかなりの実力がないと無理です。そこで5、6名の方にお願いして、電車の時刻表のようにスケジュールを埋めていきました。走る事以外での労力も相当なものです。そして、地元の方々の協力があって今まで以上の練習が出来たのです」一緒に走ると絶対に自分から止めるとは言わない。柳川さんの強さを感じる。



取材を終えて
記録を追い求めて競技を続けてきた安田さんは、柳川さんの伴走をする事で、初めて一キロ四分ペースのレースを経験する。市民ランナーと一緒に走り、その人なりに頑張っている姿を見て、記録や順位で表せない素晴らしさを感じたという。そして自分のやってきた事をこんなにも喜んでくれる人がいると知った。以前のように走り続けていたならば、マラソンの記録を四分は縮められたかもしれないが、記録が伸びなくなった時、競技生活も終わってしまっただろうという。今では、中学生の指導や講演を依頼されるようになり、新たに人と出会い、視野が広がり、人の輪が広がっている。社会の役に立てるチャンスでもあり、また、そうなる事を望んでいる。大いに今後の御活躍を期待したい。


パラリンピックについて
イギリスの神経専門医ルードイッヒ・グッドマン博士によってパラリンピックの原点、ストーク・マンデビル競技会が一九四四年に始まった。パラリンピックという言葉は、東京オリンピックの年に日本で生まれた。パラプレジア(下半身麻痺)とオリンピックを組み合わせた造語。ソウルオリンピックの後で開かれた大会の時に正式に大会名として使われた。パラ(Para)は「もう一つの」という意味もあり、もう一つのオリンピックとして位置付けられた。