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No.12


尚ちゃん大会の華
第13回アジア大会女子マラソン1998年12月6日 金メダルアジア最高世界歴代5位 2時間21分47秒

誰もが信じられない思いで見つめていた事だろう。気温30度、湿度90%のバンコク。路面に陽炎が揺れている。その中を黙々と彼女は走っていた。それも世界記録を上回るハイペースで。
アジア大会、女子マラソンで積水化学の高橋尚子選手がアジア最高・世界歴代5位の2時間21分47秒で金メダルに輝いた。
  

25キロを過ぎても5キロのラップタイムは落ちない、厳しい厳しい気象条件の下で、すべて16分台という驚異的なスピードだった。ペースメーカー付きで出したロルーペの世界記録よりも価値があると誰もが認める、まさに真の世界的記録である。レース前、小出監督は考えていた。「自分のレースをさせればいい」それは高橋選手が自分でレースを組み立てる事の出来るランナーに成長していたからだ。

あまり無理をして欲しくないから、余裕を持って行く様にと一応指示はしたが「始めから全力で行く」と彼女は言い切って、その通りのレースをしてしまった。こんな勇気を持った潔い選手を今まで見た事がない。大きな大会では、多くの選手が周りの様子を伺いながら序盤が過ぎる。思わぬスローペースに自分の走りまで狂わされ、駆け引きが始まってもペースが上げられなかったというコメントをよく聞く。それでも自分のペースでレースを引っ張る日本の選手は近年見当たらない。しかし高橋は違った。

あっけらかんと「最後まで自分の走りだけを考えて走りました。」謙虚で虚飾の無い言葉が過酷なレースを明るく語った。7・8月、高橋選手は足の痛みの為ほとんど練習が出来なかった。監督が練習し過ぎる彼女に、あえてさせなかったとも言える。8月下旬に米国ボルダーにて練習再開。そして9月には小出監督が直接指導にあたる。本人にも焦りがあったものの、距離走ではぐんぐん力を伸ばし、5キロのラップも一六分台をマークするまで復活した。この勢いは帰国後も続いた。本番一週間前には何と30キロを1時間40分で軽く走れたという。ゴールでのあの屈託のない笑顔は、アジア大会の中で最も美しい大輪として輝いていた。

どんな条件下に於いても、相手が誰であろうと、彼女はいつも自分のレースをしてくれるだろう。常に悲愴感が漂うマラソンレースに於いて、彼女は一塵の風を吹き込んだのだ。その先には、おのずと世界の頂点が見えてくるに違いない。

おめでとう高橋尚子さん
高橋選手を知ったのは、千葉県の記録会であった。五千メートルを16分の後半で走ったと記憶している。独特のフォームが印象的だったが、特別速いと言う訳でもないごく普通の選手だった。当時、彼女がここまで成長するなど全く想像も出来なかった。そして一昨年の日本選手権。鈴木博美、弘山晴美、高橋千恵美、千葉真子、川上優子、と蒼々たるメンバーが出場した一万メートルで、途中棄権をしてしまった。スタート付近に戻って来た彼女に、失礼と思いながらも声を掛けた。「調子が悪いんです」意外にも表情は明るかった。暗さがどこにも無い。図々しくもカメラを向けると「こんな私で良かったら」と快く笑顔を向けてくれた。この対応には、こちらが励まされる程だった。その謙虚で清々しい印象は、脳裏に焼き付いた。どんな結果もポジティブに考える、長距離選手には珍しいタイプだ。視線の向こうには、確固たるビジョンがある様に感じた。「彼女は、気持ちが全然他の選手と違いますよ」ある監督はポツリと語った。彼女のレースには、勝敗とは別世界の爽やかな感動がある。陸上界に新たな息吹を与える事は間違いないだろう。伊藤

第13回アジア大会 自ら道を切り開いた選手達
女子マラソン高橋の驚異的な記録で幕を開けたアジア大会で、次々に日本記録が塗り替えられた。立役者は、大きな挫折を乗り越えた選手ばかりだ。枠にはまる事なく、より困難な道を選択する事によって掴んだ価値ある栄光だ。競技者としてだけでなく人間としての逞しさが備わってきた。走る事は命と言い切る諸外国の強豪に混じって、世界に羽ばたいていくだろう。

福岡国際マラソン エスビー勢惨敗
女子マラソンと同じ日に行われた福岡国際マラソンで旭化成の佐藤選手が自己ベストを大幅に更新し、国内歴代9位の好記録で2位入賞を果たした。箱根駅伝を間近に控えた千葉合宿で彼と出会った時の事を思い出した。当時、彼は故障中で独り別メニューだった。ひたすら歩きの毎日にも関わらず、インタビューに明るく応じてくれたのがとても印象的だった。社会人になっても故障が続いていたが見事克服。一躍トップに躍り出た。
一方、昨年日本人国内最高を出した早田選手は無念の12位。期待されたエスビーの渡辺選手は左太腿の故障が再発し、途中棄権に終わった。いつもマスコミの注目と期待が寄せられる彼等の重圧は想像を越えるものがあるはずだが、その走りには人間的な強さが感じられない。世界と戦えるだけの逸材であるだけに、精神的ひ弱さが気になる。どこか過保護になり過ぎてはいないだろうか。精神も肉体も自己管理の出来る本当のエリートに再生してくれる事を願う。