金 哲彦(きん・てつひこ)監督
早稲田大学教育学部を卒業と同時にリクルートに入社。選手、コーチを経て、監督に就任。学生時代は箱根の5区、山登りのスペシャリストとしてチーム優勝の立役者となる。社会人になってからは、マラソンを中心に活躍。教え子からは有森裕子や志水見千子などオリンピックや世界選手権の入賞者を続々と輩出している。
※早大卒業時、その進路に魅力のある実業団や指導者が見当たらなかった。それだけ、故中村清監督の影響が強い。一人で始める決意をして、リクルートに入社。そして「リクルートランニングクラブ」を創立する。「クラブ」にこそ、陸上競技の本質が凝縮されているという考えからだ。「走るだけのマシーンでは強くなれないのです。本当の世界チャンピオンは人間性が優れています」ドーピングで勝っても、心の欠如した勝利ほどつまらないものはない。「満たされた社会の中で、スポーツは第四次産業と言えます。速いだけでは人は感動しません。インタビューなど総合的な場面で人に影響を与えていくのが一流のスポーツマンです。青春時代に走る事だけに時間を費やすのはスポーツ馬鹿の様ですが、もっと奥が深いのだ、と訴えていきたいのです」陸上を通し、競技力と人間形成は互いに不可欠であるという価値観を得た。その意識は確実に選手に浸透しつつある。
※陸上界のシステムにおける問題点、特に組織の在り方について意見を聞いてみた。
「組織の枠の中に納めてしまうと、世界に通用する選手は育たないと思います。世界のトップクラスの選手を見てもそんな人はいません」会社にとって投資して育てた選手に移籍されては損失になる。こんな日本企業的な考え方では、個人は組織に縛られたままである。終身雇用、年功序列はスポーツの世界にあってはならない事だ。ワコールの体罰事件は、氷山の一角、表面化されない行き過ぎた指導は、陸上だけではない。時代錯誤のスパルタ指導はなぜ起こるのだろうか。「古い考えの指導者は、東洋の魔女の大松監督を見ていると思います。失敗したら叩くという事が儀式化し、当たり前になっていると感じます」成功した人の真似をする。それがいつのまにか伝統として受け継がれる。「弱くなろうと思っている選手はいないんです。そんな選手がいたとしたら殴る以前の問題です。実業団の選手は、体罰で成長するものではありません。考え方のレベルが低いな、と思ったら断わります。私は体罰はあり得ない事だと思ってます」やらされているものに感動はない。走る事がランナーの自己表現にならなければいけない。しかし、道に迷う事は誰しもある。そんな時、監督は、何のために走っているのか、という原点に戻らせる。
「面白いものをお見せしましょう」とファイルを開くと、そこには『金言集』とあり、ご自身の陸上哲学が集約されていた。中でも自信作は「世界制覇へのプロセス」一、好きだから走る、強くなりたいから走る、に始まり、世界一になるまでのプロセスが三八項目ある。どんな選手にも当てはまり、今の自分がどの位置なのかが一目で分かる。これは選手の心の支えになっている。
※「実業団のダイエットと貧血対策について知りたい」という中高生からの要望が多いので、お聞きした。「減量といっても、痩せれば良いという問題ではなく、ランナーとしてのベスト体型を保つ事が目的です。食べないのではなく、体調や練習の量によって食べるものを考え、身体の状態を見極める事です。練習以外の活動も含めて、二十四時間意識出来るかです。特効薬はありません。選手としての当たり前の事を考える。意識改革をして見て下さい」日常生活の中にダイエットの要素は沢山ある様だ。「高校時代に、ひどい貧血を経験したので、あの辛さは良く分かります。当時は知識もなく、先生に根性がないと言われ、走らされました。それでも治らず、その後二ヶ月間毎日レバニラを食べさせられました。重度の貧血は医師との相談が必要ですが、スポーツ性貧血は練習量を落としたら戻ります。トレーニングはバウンディング現象ですから、しっかり血液状態を把握しておけば、何の心配もありません」身体の状態をいつも意識する事が大切である。
監督はマッキントッシュを愛用し、インターネットで海外のトレーニング理論などの情報収集をされている。「世界選手権に行きますと、情報の端末が置いてあります。私は必ずそれを使い、日程・競技予定の確認をします」選手にコンピュータを一台ずつ持たせる事も考えている。「選手との一対一のコミュニケーションを保持するために、日誌を書かせている訳ですが、電子メールは最適です。将来役に立ちますからね」ぜひコンピュータの活用を拡げて、電脳ランナー達を育てて下さい。
※最後に、中高生に熱いメッセージを。
「陸上って面白いよ、と伝えたいです。やればやる程、自分を高めてくれます。中高生では、まだまだ走る事の本質が分らず、苦しい練習が嫌になる事もあるだろうけど、目標をしっかり持って、身体と精神を鍛え上げる喜びを感じて欲しいです。それは物凄く面白い事ですから、辛い時があっても、高い次元に自分が行くまで追求する価値は絶対にあります」
長時間に亘るインタビュー、終始笑顔を絶やさず、その話ぶりには、優しさと細かな配慮がひしと感じられた。陸上競技を通し、走る事は人間の営みであると体感されてきた。それらが一つ一つの言葉にヒューマニティを生み、尊厳を与えているのだろう。グローバルスタンダードを行く監督に、陸上界の明るい光を見た。伊藤