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No.06


スポーツ界の原点が危ない

スポーツ界の原点が危ない
中学校の部活動が減少している。埼玉県の調査によると平成6〜8年度の2年間で328運動部が廃部になった。原因はさまざまだが、指導教員の減少が大きな要因である。 新規採用が減り、高年齢化が進み、教員の平均年齢が40代という学校も多い。生徒と一緒に体を動かして指導することはもちろん審判さえも出来なくなる。また、体力の減退と反比例して仕事量は増加、疲労は溜まる一方である。千葉県のある中学校教員がこんなことを言っていた。「顧問が動けない部活動には生徒の入部希望も減っている」若いエネルギッシュな先生に後を任せたいというのが本音のようだ。世界の壁はまだ厚くレベルアップが求められているのに、5年後を考えると絶望的だ。日本スポーツ界はある意味で中学校の部活動が原点であるにもかかわらず、そこが崩れていくようでは将来は無い。 世界のトップにいた伊達公子選手も引退に際し、中学校の硬式テニス部が少ないことを上げていた。未来を築く子供達のために、もう一度、部活動の在り方を考え直したい。

渦巻く思惑
足掛け2日に及ぶコース整備が終了したのは明け方近くだった。 大都会の街並みを選りすぐりの精鋭たちが駆け抜ける東京国際マラソン。このコースは政治と経済の中心地である。霞ヶ丘競技場のぐるりは路上駐車のメッカ。それを他所に路肩清掃は進んでいた。警視庁交通課の設置した赤いコーンが立ち並ぶ路上はゴミひとつ無くなっていく。延べ40kmに及ぶ整備は完璧だった。そして当日には揃いのユニフォームに身を包んだ役員がずらりと配置される。冠大会にはスポンサー企業から巨額の資金が投じられる。頭の上がらないマスコミの注目は常に偏り、陸連のオリンピック代表選考も絡んで特定の選手ばかりが映し出される。記録という大義名文のもとに市民は排除され、選出理由の不明な外国人招待選手が顔を揃える。そして決して公表されることのないラビットが落日の感を否めないマラソン日本を引っぱる。選手を商品として扱うブローカーの存在。外国人選手だけでない、陸連すらも彼等に牛耳られているのだ。見る人に夢と希望を与えてくれるはずのマラソン。その裏にこんな思惑が渦巻いていることを誰が許せるだろうか。路面に光る汗はどこまでも純粋であって欲しいと願うのは無理なのだろうか。主催者の意図がどこにあろうと、アマチュアスポーツがいかがわしい興行であってはならない。経済に巻き込まれることなく、市民からトップ選手まで堂々と参加できる大会を将来実現したいものだ。複雑な想いで迎えたこの日、心の曇りを晴らしてくれたのは、一般参加選手の爽やかな雄姿であった。

本末転倒の大会運営
招待されると当日は最悪のコンディション。結構辛いです〜
誰のための大会なのか
町や村興しにロードレース大会や駅伝大会を企画するところが多くなった。最初は運営も必死でいろいろな心配りがあり、参加者もホットな気分で走れた。ところが、年々参加者が増え、規模が大きくなってくると、今度は華やかさを求めるようになる。招待選手を呼び、立派な記念品を渡したりする。参加費を払っている市民ランナーには還元されない。「招待されると試合前日に歓迎会があるので、当日は最悪のコンディション。結構辛いです」ある実業団選手の話である。もっと自由でスマートな大会運営はできないものか。選手がスポーツとは関係ない思惑に巻き込まれるのは本末転倒だ。地方の駅伝大会は1月、2月に集中する。地元だからみっともないレースはできない、と故障中の選手まで出場させなければならない場合もある。地区対抗駅伝になると合同練習会も増え、基礎体力を養う冬期練習が思うように出来ないと嘆く先生方も多い。市民大会に限ったことではなく、陸連、陸協主催のジュニア育成を謳い文句にした大会でも、トップ選手のほんの数名だけが連戦し、他はチャンスすら無いのが実状だ。選手のことを考えない監督、コーチが多すぎる。肩書きのある人達の思いつきで素質のある選手を酷使するのは止めてほしい。主催者が盛り上がって何になる。誰のための大会なのか、考えてみては。